弱さと向き合うということ。

今日は朝から母の付き添いで病院へ行ってきました。

以前のブログでも少し触れましたが、母の視力が失われる可能性を先月に医者から示唆されていて、そして、先週の1週間の間に3度、完全に視界が失われる時間があったと母から昨日告げられたのを受け、急きょ診察を受けたのです。

検査を受けて判明したことは左目はもう視力がないということでした。ただ、眼底検査では先月より悪化した気配は見受けられないので一過性のものである可能性もあるため経過観察ということになりました。

医者が言うには、もし一過性のものであれば左目の視力も少しは回復する可能性もあるし、視力が失われる時間ももう現れない可能性もあるのでとにかく様子を見てみましょうと言われました。

「もし」「であれば」「可能性も」「様子見」こんな言葉の羅列で何が理解できるんでしょうか。私には結局何もわかっていないんだなということ以外は何も理解できませんでした。

患者のためを思って直接的な表現は避けているのかもしれません。実際にまだ現在の医学では解明されていないのでそういう風に言うしかないのかもしれません。ですが、不安でいっぱいで、何らかの答えを探しに病院に来ている患者に対してその返答ははたして誠実だと言えるのでしょうか?

現段階では効果的な治療法がないと言われている病気で、遠回りに期待をさせるような無責任な言葉を並べたて、責任はとれないから直接的な表現はしない。

これを言われる母本人はどんな気持ちでいたのか。期待と、不安と、期待して裏切られることへの恐怖と、諦めと、希望と、どうせいつかは失明するという失望と。

その後、どう思う?と母に聞かれて一緒に今後の色んなことを考えたり相談したりしながら気がついたことは、私自身も母と同じ葛藤と戦っていることでした。

もちろん、一番戦っているのは本人である母だし、一番苦しいのも本人です。ですが、母を取り巻く人間は大かれ少なかれ同じ葛藤を抱くのだと思いました。この視力の件に関しては今はまだ家族でも知っているのは私だけで、これからみんなに少しずつ話していかなければなりません。

知ってしまうことでこの葛藤を相手にも与えてしまうことに気付いてしまったので、どうすれば負担なくこの状況を伝えることができるのかとても考えています。

そのためにはまず私自身が私なりの答えを出す必要があるのだと思います。

今日、考えていたよりももっと早く、母の視力は失われつつあるのかもしれないということを思い知らされました。私も早く答えを出してみんなの協力を仰げる体制を早急に作りあげなければなりません。

心を強く保ち、しっかりと答えを見つけたいと思います。